カーナビの本質、カーマルチへの道

〜Introduction〜
 一年程前のことである。いささかなりともクルマの商品企画に携わり、とくに自動車電話やカーナビ、そして車載テレビなどクルマと情報通信について直接的にせよ間接的にせよ深く関わってきた私の目の前に、一冊の本が出現した。
 照井保臣著「3000万台のマルチメディア」(カーナビ&クルマ進化論)角川書店刊である。
 昨今、RVと言うよりMPV(マルチ・パーパス・ビークル)ブームの一方で、商品面においても販売面においても、安全や環境問題ばかりがやけに強調されている。ここ数年のモーターショーを見れば一目瞭然であろう。このままではユーザーが待ち望む「夢のあるクルマ」はどんどん遠ざかるばかり。
 「夢のあるクルマ」の鍵はクルマと情報通信、すなわちカーマルチメディアが握っているとの確信はいささかも揺るぎないが、「カーナビ」については私はこれまで極めて懐疑的であった。多分私が商品企画を担当していた十年ほど前の技術レベルでの体験が尾を引いていたのであろう。何故こんなに売れるのか理解できなかった。テレビを見るのが主体でナビ機能はオマケぐらいの認識すらしていた。
 目からウロコが落ちたとはこのことであろう。カーナビの本質、クルマの本質、日本のクルマ社会、そしてカーマルチメディアへの道について明快に語っている。共感する部分が極めて多い。少々長くなるが以下に抜粋および一部要約して紹介する。


「3000万台のマルチメディア」(カーナビ&クルマ進化論)照井保臣著より

<序の章 カーナビの登場>

「メーカーもジャーナリストも、カーナビが異常人気に支えられ、売れに売れ無視できない存在になりつつあるという実状認識では、ほぼ一致した見解の中にある。しかしその人気の秘密という点では、百人百説、その正体が皆目わからない。」

「カーナビのテストの後で、カーナビのついていないクルマを運転すると、非常に寂しい思いがするのである。(略)もしかして、この寂しさの理由を探っていくと、カーナビの正体がなんであるかという回答にたどりつくのではないか・・・」

「ところが突然、この探求の旅の途中で、このカーナビの普及を利用し、私たちからドライブの楽しみを奪ってしまおうという”陰謀”があることに気づいたのである。(略)そんなことから、私のカーナビの本質を探求する旅は、いつのまにか、私たちからドライブの楽しみを奪おうとする連中の、陰謀を暴く旅に変わってしまった。」


<第一章 カーナビの正体を探る旅>

「ソフト開発者も含め、カーナビのメーカーは、その開発されている商品の機能から推し量ると、どうもカーナビとは何であるかを十分に理解していないように思われる。あまり役立たないもの、的外れたものの開発や精度を高めることに、血道を上げているような気がする。(略)カーナビはクルマの用品なのに、今日のブームを作っている市販のカーナビメーカーは、大半がAV、エレクトロニクス関連の企業ばかりで、自動車メーカーや、一部を除いて直接それに関連するメーカーではない。」

「カーナビとして、地図を映し出しているあの6インチほどのTVモニター。これこそがクルマを情報通信機能で武装させた象徴である。この画面に、カーナビがなにを映せるようになるかで、大袈裟に言えば、クルマの将来が決まってくる。(略)心配なのは、まだ評価の決まっていない新技術なのに、横から行政が乗り出し、勝手に規制を加えたり、自分の省庁の縄張りに封じ込めてしまったりすることである。」


<第二章 カーナビの本質を語る旅>

「道というのは、そもそもそれ自体がナビゲーター(誘導人)なのだ。(略)軌道の上を走る汽車、電車といった乗物は、線路以外のところは走れない。クルマのように道を走る乗物も同様で、原則として道以外のところを走るようにはできていない。ただ線路よりは、道路の方が少しは幅が広く、それだけ自由がある。それに交差する道も多く、経路は線路のように単純ではない。それだけに、道がナビゲーターの役割を果たすには、経路を誘導する道路標識、案内板が完璧に完備していなければならない。」

「ところが、日本の道路標識や案内板はクルマ社会になる三十年前のそれと、たいして変わっていない。(略)これまで標識や案内板を全国的に系統立てて設置しようとか、検討、研究しようという話を一度も聞いたことがない。(略)建設省や運輸省、自治省、警察庁など道路関係諸官庁に、そのクルマは道路をナビゲーター(誘導人)にして走る乗物なのだという自覚がまるでないからこういうことになる。モータリゼーションの歴史的発展の差だといってしまえばそれまでだが、欧米の道路標識や案内板は本当によく完備されている。」

「ヨーロッパの道は、古代ローマ帝国の軍用道路から始まっている。軍用道路とはもちろん、馬が引く牽く戦車の通る道であり、武器や補給物資、戦利品を馬車で運ぶ道である。(略)要するにヨーロッパの道は、最初から人が歩行するためでなく、クルマを走らせるものとして作られたが、同時に、道があってのクルマなのである。道そのものがクルマのナビゲーターだという意味も、そこにある。」

「なんと驚くなかれ、日本にはついこの間、わずか五十年程前の終戦時まで、クルマのための道は一つもなかったのである。(略)日本に馬車のようなクルマがなかったから、道も必要なかったのである。(略)恐らくこれは、急峻な山が連なり、坂が多く、いたるところ川に突き当たるという国土の地形に由来している。(略)そしてなにより日本の道路が一番特徴的なのは、迷路のように複雑で、なおかつ狭いということである。」

「カーナビは天空からクルマをナビゲートする。しかしクルマは道というナビゲーターが誘導するものとして発明されており、それ自体特別のナビゲーターをもつ必要はない。ところが、日本ではそれが開発され、カーナビとして売れている。それは日本の道路がナビゲーターの役を果たさず、行政が高価な地図などにそのかわりをさせているからである。 そのためカーナビのメーカーは、これを精度の高い電子地図にしようと無駄な努力をしている。何故無駄かといえば、どんなにカーナビの精度を高めようと、それは道が本来もっている道路標識や案内板などのナビゲート能力には到底及ばないからである。 しかしメーカーの意図とは裏腹に、カーナビは意外なところで貢献しそうなのである。それはカーナビが、じつは、地図にない道までもクルマをナビゲートする機能をもっているからである。(略)
では地図にない道とはなにか。それこそアジア的農耕民族の道で、狭く複雑だが、生活に欠かせない道である。カーナビは極めて日本的道路事情の中から生まれた電子機器である。同時に道路がクルマをナビゲートできないアジアの農耕民族諸国や、社会資本に十分な投資ができないため道路整備が遅れている発展途上国のクルマには、これから大いに役立つはずである。未開発で道が整備されていなくても、クルマはカーナビの出現で安心して乗れる乗物になった・・・。道があって初めてクルマが乗物になるという西欧文明から見れば、これは明らかに、クルマの革命である。」

「カーナビの本質は、<経路誘導装置>ではなく、ロケーター<位置表示装置>にあった。クルマが地図上の道を走る限りナビゲーターは不必要で、地図にない実用道路、生活道路を走るときこそロケーターが必要なのである。(略)それはドライバーの気持ちを、位置確認の情報を常時提供しつづけることで、地理不案内という不安から解放し、同時に孤独感からも解放するという精神面の効果である。(略)少なくとも私は、この位置確認から得られる情報だけで、十分に会話を楽しむことができた気分になることができたし、この楽しさは、カーナビから離れると寂しくなるほど強いものであることを実感している。この旅の当初に、私が、カーナビ探求のキーワードとした<寂しさ>は、まさしくカーナビの本質に由来するものだったのである。」

「クルマにカーナビを持ち込んだらなにができるか、なにが見えてきたのかの二番目は、クルマそのものの本質が見えてきたということである。(略) それは、欧米のクルマと日本のクルマは異質なものだということである。(略)それはクルマが<すでに道があって生まれた乗物>なのか、それとも<道なき道を走る乗物>なのかという違いなのである。(略) 欧米の<道があってのクルマ>は、あくまで馬車の延長上にあり、その理論は今日のクルマの中心的思想である<快適移動空間>論につながってくる。そしてその先は、この思想に<安全>が加わり、道路からの情報も得て<安全な無人カー>を指向する。日本車も、これまでは明らかに欧米、とくに欧州車を手本にして成長してきたのだから、ここまでは<快適移動空間>を目標としてきたことはまちがいない。ところがここにきて、その物まねというか、借り物の設計思想に限界が見えてきたのである。(略) 二千年以上も前に道ができたヨーロッパは、自動車が発明されるずっと前からクルマ社会が存在していた。比較的新しい国家であるアメリカも同じことで、世界一の自動車産業をもったことで、突然クルマ社会を作り出したわけではない。(略)ところが、自動車先進国の中で日本だけは、なにもないところに突然、自動車産業が始まり、クルマ社会が出現したのである。」

「このほぼ四十年間、ひたすら日本は欧米並みの自動車先進国になる努力を続けてきた。そしてその目的は、こと産業の発展とクルマの普及については、見事に達成されたといっていい。(略)しかし哀しいかな、クルマ社会の歴史的基盤があって先進国になったのではない。あくまでも欧米の物まねで、追いつけ、追い越せといってここまできたのである。そこにはクルマ社会の確かな思想、理念など、あるはずがない。『・・・で、この先、どうされるんです、日本の自動車メーカーさん。世界一の生産国になって、リーダーとしてこれからのクルマをどうしようとお考えですか?』これが、日本に追い抜かれた欧米先進国の日本の自動車メーカーに対する冷ややかな問いかけである。(略) 私たち日本人が世界に提案するこれからのクルマは、どうあるべきなのか。カーナビをクルマに持ち込むことによって、私はその解答への第一歩である、欧米のクルマと日本車の差別化が、初めて可能になったと思っている。一方は<はじめに道があって生まれた>クルマであり、他方は<自分で道を探して走る>クルマであった。」

「要するに、今の日本には官僚の戦術はあるが、国家の進むべき方向、原理原則を決めた明確な戦略はないということなのである。この結果どうなるか。世界一の経済力で、世界中のドルをかき集めても、その使い道がわからない。世界が、経済力に見合った政治的な発言、政治的影響力の行使を期待しているのに国家としての戦略がないからなにもできない。たとえば湾岸戦争がそのよい例だろう。(略)理念なき国家の限界といっていい。国家と規模は違うが、それぞれ世界の頂点にたった我が国の金融、自動車などの産業、そして個々の企業もまた、理念なき事業の限界に立たされている。」

「具体的に指向すべきクルマの形は、すでに見えている。クルマは、安全を大義名分として<無人カー>を指向するべきではない。自分の意思でハンドルを切る、つまり、<ドライブ(運転)する乗物>にこだわってこそ、クルマなのである。(略) <ドライブするクルマ>こそ、日本が主張するクルマでなければならない。<無人カー>では、あぜ道がクルマの道と化したアジア農耕民族の国を走れないし、道路の整備より先に経済を自立させなければならない発展途上国には適さない乗物である。日本のクルマはこうした国にも、歓迎されるクルマでなければならない。(略) 安全を大義とした<無人カー>は、その行き着く所、所詮単なる輸送機器でしかなく、それは極めて非人間的なクルマへの帰結である。これに対し<ドライブするクルマ>は、その名のとおりあくまで<ヒューマンカー>を指向している。」

「そのいずれの方向も、実現を可能にしているのはクルマの情報通信化、つまりカーナビの普及である。今後は、カーナビのモニターに何を映し出すかによって、クルマの概念も機能も大きく変わってくることになる。<無人カー>を指向する場合は、その画面に官製の交通規制や、インテリジェント化した道路からのコントロール情報が映し出される。これに対し、<ヒューマンカー>を指向する場合、そこに映るのは、自分の意思でドライブするのに必要な情報ということになる。」

「これは明らかに陰謀である。(略)東京都や警視庁が組織の主体となっている第三セクターのATIS、建設省、警察庁の構想に郵政省を加えて一本化したVICSなど、その事業化はいずれもカーナビの普及を待っていましたといわんばかりのすばやい対応であった。(略)これら関係省庁にとって、カーナビ、もう少し広い言い方をすればクルマの情報通信機能化というのは、自分たちの行政の野望を遂げるための格好の手段でしかないのである。カーナビがクルマという乗物をどのように変え、クルマ文化をどう変質させていくかなどという視点は、全く無視している。」


<第三章 カーナビがマルチメディアの本流に>

「自動車先進国である欧米では、日本のような詳細な地図を何冊もクルマにおいておくようなことはない。あるのは一冊、あまりにも有名な、あの赤い表紙の『ミシュラン』のガイドブック、通称『ミシュランのレッドブック』だけである。あとはせいぜい広域地図が一枚といった程度。ドライブはこれで十分なのである。一説によれば、『ミシュラン』は聖書に次ぐ世界のベストセラーだという。つまり聖書は各家庭に一冊はあるが、『ミシュラン』はクルマの数だけあるということなのである。『ミシュラン』のガイドブックといわれてもピンとこない人がいるかもしれないが、例のホテルやレストランを<五つ星>とか<スリー・フォーク>とかにランク付けしている本といわれれば、あるいは納得いただけるかもしれない。」

「日本の『クルマ事情』は、自動車の普及、産業の振興が先にあり、それを受け入れるクルマ社会は、後からついてくるというパターンで発展してきた。経済、産業が主、文化、生活が従なのである。したがって今日のクルマ社会は、至る所にその矛盾が露呈している。自動車の普及に追いつかない道路網、駐車場、モーテルとは名ばかりの宿泊施設。鉄道の駅前が廃れ、繁栄する郊外の外食店や大型小売店。家が買えないのに、売れている外車。駆け足で日本のクルマ社会をざっと展望したが、実は、『ミシュラン』が普及しないで日本はなぜか道路地図だという話も、この矛盾の延長上にある。」

「ドライブするためにクルマに必要なものは、地図ではなく、その途中や目的地で行動するための詳しい情報、つまりガイドブックである・・・。『ミシュラン』は、自動車先進国の先輩出版物として、私たちにそう教えてくれたのである。それはいったい、どういう理由なのだろうか。(略)まず第一に、これは誰でも知っている特徴だが、ホテル、レストランなどを格付けしている。これはガイドブックとして、利用者にどこまで利便性のある情報を提供できるかということを考えたとき、究極の編集をすれば格付けまでしなければならないということなのである。(略)もう一つ大きな特徴がある。それはこのガイドブックは、シティ(都市)ガイドを基本に構成しているということである。文字情報で埋められたガイドの要所要所にでてくる地図というのは、シティマップだったのである。」

「わたしの場合はもう少し甘く予想している。今後5年間のカーナビの年平均販売台数は150万台で累計750万台。後半の5年間は新車の段階から標準装備するクルマも多くなり、年間平均650万台の新車登録・届出台数のうち装着率50パーセント弱と見て、年に300万台、5年間で1500万台。前後半をあわせて2250万台、少なめに見積もっても2000万台には達するだろうと予測している。(略)『カーナビはエレクトロニクス商品だから、売れ出すと価格が極端に安くなる。恐らく5年もしないうちに、モニター付きで5、6万円になり、そうなると爆発的に売れるでしょう。』という、関係者の予測がある。」

「いずれにしても3000万台を超えるカーナビの普及は、近未来のこととして真剣に考えなければならない状況なのである。この数字は、4000万といわれる全所帯数に迫るものであり、パッケージ型マルチメディアの本命候補と目されている家庭用ゲーム機の普及にほぼ比肩する。(略)本体そのものがまだ機能の可能性を探っている段階で、満足なソフトもないのに、これだけの需要が見込まれているのは驚きですらある。」

「そのモニターに、どんな情報を映すのか?まず本体機能であるロケート(位置確認)情報、クルマ自体のメカ情報、CD−ROMからのソフト情報、そして外部からのテレビなど放送情報と、ビーコンや無線、それに携帯電話など移動体通信を使った双方向の通信情報などが考えられる。(略)これはまさしくマルチメディアである。クルマはカーナビのTVモニターを持つことで、情報移動体というマルチメディアに大変身するのである。 (略)カーマルチは、その構成メディアの一つであるカーナビの人気を先導役とし、わずか5年後から10年後の近未来に、3000万台からの端末を持つマルチメディアの本流となって躍り出ようとしているのである。しかし、その現実に気づいている人は極めて少ない。」


<第四章 カーマルチの世界>(要約)

  1. カーナビ移動体メディアとして
  2. カーセルフ移動体メディアとして
  3. マルチ移動体メディアとして

<第五章 了の章>

「カーナビは明らかに、クルマの本質を変えるだけのエレクトロニクスと情報通信という大きな二つの機能を持っている。本来機械であるクルマを、エレクトロニクス化する過程で、カーナビはそれを欧米のクルマが進む、<馬車>→<移動空間>→<安全>→<自動運転>→<無人カー>という方向に持っていくための、情報通信の窓口になることができる。しかし同時にカーナビは、馬車も、クルマをナビゲートするべき道も持たないアジアの農耕国家や、インフラの遅れている発展途上国のクルマとして、<地図にない道を走る>→<自分の意思で走る>→<自由に運転する>→<ヒューマンカー>を目指す、情報通信の窓口になることもできるのである。カーナビは、このいずれのために役立てられるべきなのだろうか。だが、この重要な選択についての論議がないまま、カーナビは一気に、そのブームの時を迎えたのである。(略)
旅の途中でわかったことは、カーナビはその華やかなブームとは裏腹に、売れるというだけの理由で深い論議のないまま開発に飛びついた後付け電気メーカーと、そのブームを千載一隅のチャンスと待ち構えている官庁の陰謀の中にあるということであった。」

「そうした中で、突然のブームに動揺しながらも意外に確かな足取りを見せていたのは、自動車メーカーであった。(略)クルマのエレクトロニクス化は、技術の進歩に合わせ際限なく進んでいくわけだが、自動車メーカーはこれを、あくまで自動車の機能のうちに止めておきたいという意思を強く持っているようである。(略)自動車メーカーは基本的に、情報通信は本来自分たちの分野ではないと考えていると思う。したがってカーナビが搭載されるようになっても、そのモニターは、せいぜい交通情報やドライブガイドなどのカーナビ移動体メディアと、クルマ自身の制御情報であるカーセルフ移動体メディアとして利用できればいい、といった程度にしか考えていないはずである。」

「問題はここである・・・。今、後付けメーカーが中心となって普及しているカーナビは、間もなく、自動車メーカーが新車からビルトインすることになる。そうしたら、後付けメーカーはエアコンのように、自動車メーカーの下請けになってしまうのだろうか。実は、私はそんなことにはならないと思っている。(略)後付けメーカーのカーナビは、自動車メーカーが基本機能ではないと敬遠している情報通信機能を強化することで、生き延びる道が開けてくると思っている。情報通信機能の強化とは、もちろんカーナビとPDAのドッキングであり、カーマルチの展開である。」

「その両者の接点は、私はやはりカーナビ本体の開発にあるのではないかと見ている。自動車メーカーはこの本体を、できるだけクルマの制御に利用しようとし、一方、後付けの電気・電子メーカーは、この本体をコンピューター化し、双方向でネットワーク化した移動体系のマルチメディアに近づけようとする。ソフトでいえば『シティガイド』あたりが両者の接点に位置しよう。(略)これはカーマルチをめぐる、カーナビメーカー20社の生き残りをかけた開発戦争なのである。どのカーナビメーカーが、PDAとドッキングさせた使い勝手のよい移動体車載通信、カーマルチを完成させるのか・・・。」

「私のカーナビを探求する旅は、意外にもクルマの世界から、マルチメディアの世界へと、異質の世界を跨ぐ旅行となった。しかし考えてみれば、驚くに当らない。クルマの歴史は、たかだか百十年。当初は、クルマ自体が情報を持った人間を運ぶ最大のマルチメディアであった。そして現代、情報化時代と言われながら、そのマルチメディアは混沌とし、まだ空想の世界を脱しきれていない。今ふたたび、情報移動体であるクルマは、マルチメディアの世界にアクセスしようとしている。そして企業の、開発大戦争・・・。まだ、その先は見えてこない。」
(96.11)


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